distributed attention: 芸術経験の典型例
そうじゃないやつもある.
でも,知覚の哲学で説明できるものがある.
みんな同じところを見る,ということ
実践的関心があると,たしかに自分の関心のあるところにしか注目しなくなる.
芸術作品のときはなさそう.まあ不可能ではないけど.
でも,他者中心的な実践的関心はある.
Vicarious experience: 他者中心的な実践的関心がある経験
これは日常的にもあることだが,detached mannerとは区別できる.
自分じしんの行為だけを参照すると特徴付けられない
代わりに経験することは,心の理論や鏡像機構とはまたちがった,社会的認知の原始的なものとして理解できるかも.
prompted eyeの他者版がある
共鳴や感情的関与,あるいは共感〔empathy〕は入れ替えてつかうこともあるが,じつはけっこう違う.
でも,中心にあるのはvicarious experienceだと言いたい.
鑑賞者と主人公とのあいだに重要なちがいがあるにもかかわらず, engagmentがとても強いものになることがある.
主人公が脅威に気づいていないのに(認識的に非対称),鑑賞者は強く関与する
ヒッチコックの主張:
この現象を説明できるのは,じつはvicarious experienceを使ったものだけではないか.
共感〔empathy〕だとするとどうか.シミュレーションとか.自分じしんがXの立場にあるということを想像する.
立場〔situation〕といってもいろいろありうる.
Gaut 1999:共鳴とか,他人の状況にある自分を想像するとかいうのは,aspectualである.
認識的非対称の場合,どういう想像をしたらいいのか.認識的共鳴だとだめ.
内側からの想像説だと,状況がちがうのにどうして強いengagementが生まれるかを説明できない.
反論:サスペンスのせいでは?
Carroll: 他人に対するnon-passingな〔傍観者的ではない〕肯定的態度
トムとジェリー(ネコに追いかけられたり罠をかけられたりするネズミのケース)
出てくるひとの行為を参照しないと読書経験を記述しづらい例
なにに歴史があるのだろうか.感覚刺激,知覚機構(前期視覚のほう? 後期視覚のほう?)知覚的内容?知覚的現象学?
これは,現象学だよね.つまり,あるものを見るということはどのような経験であるか,という論争である.
視覚というのはなにを見るときの話だろうか.
2章で見たとおり,注意のしかたにもいろいろある.overt(眼球運動がある)/covert, endogenous(刺激によらない)/exogenous, focused/distributed
distributed attention一般が,歴史のある時点で出現した能力だ,という主張を擁護することも不可能ではなさそうだが,ここでは絵画を見るという文脈に絞ろう.
ただし,風景が歴史的に変わったというだけでは,注意が変わったとは言えない.
視覚的風景がいっしょで,注意だけがちがうふうに発揮される,という例を探す必要がある.
個人についてはこういう例がある.問題は,歴史じたいにもこういうことが起きるかどうか.
月の知覚についてはどうだろうか.むかしは,月が球体だとは知られていなかった.満ち欠けの見方など,異なった側面に注意を向けるようになったと言えないだろうか.
視覚一般については,やはり難しそう.だが,絵画については,よい理由があると言えそうなのだ.
絵画を見るときに発揮されている,design-scene性質への注意には,歴史的変化がある,と言えそう.
16世紀以前のひとびとは,これができなかったのか?
予備的な考察:この手の絵画は歴史上,わりととつぜん出現した.
当時の絵画論:アルベルティは,絵画表面ではなく,描写されたものの見た目についてだけ論じている.
積極的な証拠とは言えないが……
スコープとして西洋の観察者に限っているが,非西洋だとどうなのかはべつの課題.
見るほうでなく描くほうは,以前から気づいていたかもしれない.芸術家はここでは除外しておく.
歴史以外に,文化差はどうだろうか.
水族館:西洋人は動く魚に注目するが,東アジア人は泡や海藻に注意を向ける.
傾いている枠のなかの棒だけをまっすぐに調整する課題での文化差
ただし,これらの実験から歴史的な変化に結びつけるのは勇み足である.
まとめとしては,twofold attentionが歴史的に出現したものだというのはそれほどとっぴな主張ではない,と言いたかった.また,uniquenessも同じように歴史的に出現したものかもしれない.
xの持っている内在的で観察可能な性質のすべてをyも備えているとき,
(a) yは芸術作品ではない(からxはユニーク)
(b) yはよい芸術作品ではない.(からxはユニーク)
でもこの存在論的な主張はだめ.
また,1950年代の議論ではトークンだけを扱っていたが,タイプとして芸術作品を捉える立場も登場した.そうなるとユニークネスはこれでは理解できない.
美的な評価的判断についてのユニークさならどうだろう?(the second classic version)
これはparticularims 対 generalismの論争として知られている.
Isenberg: 複製は同じ美的性質を持つのでは.
いっぽう,Sibley: determinableな性質については,たしかに橋渡し原理はない.でもdeterminateな性質についてはある .〔黄色が優美だ,とは言えないが,ここのこの色が優美さに貢献している,とは言える〕
そして,美的分野において欲しいユニークさがこれで手に入ったわけでもない.
だいじなのは美的経験のユニークさである.
美的経験は,
美的経験のなかには,はじめてなにかに出会うという経験によく似たものがある,という説
この路線の美的経験の説明もすぐ見つかる.Stan Brakhageの言う"untutored eye"
芸術史・美学史は,「無垢な眼」なる概念をやっつけるのに,20世紀後半の多くを費やしてきたと言える.
surface propertyだけがrelevant
じゃあ形のある物体までは入れよう.coloured masses
semi-formal properties: properties of the picture that depend constitutively on ( or are identical to) the picture's formal properties
ところでthreefoldnessを考えると,
「猫を描写している」だとsemi-formal propertyには入らないが,「猫を遠近法で描いている」はsemi-formal
semi-formal propertyのひとつとして,design-scene propertiesもある.
The first anti-formalist argument I just discussed was focusing on the first tenet of formalism:
against the second tenet
The third objection: indiscernible objects
what exactly the properties in question are supposed to be?
定義によって真な(空虚な)立場ではない.作者の生活史とかを持ち込むようなやつとは対立できる.
不調和な第1コードが哀しみをにじませる〔exude〕というなら,この性質はsemi-formalだし,美的にrelevantな性質であるのを拒否するのは難しい.
Hanslick 1854や,Hanslick主義者のひとりであるZangwill 2004なんかは,emotionはなんの役割も持たないと言っている.
コンセプチュアル・アートだとどうか.鑑賞しているのは概念だよ,という立場がある.たまたま宿っているところのart formが持っているformal propertiesは関係ない,というもの.
Costello 2013: コンセプチュアル・アートは一枚岩のカテゴリーじゃないのでは.
disjointed objection(2つをなぜ混同しないのか?)
認知的侵入を認めるのか?(非知覚的状態が知覚経験を変化させる)
ダルメシアン絵画の例では,現象学的な変化が起きている.